書くことで心配されることもあると思うけれど、私はやっぱり書くことで気持ちの棚卸しになる。そうして書いていた記録が、母の生きていた証のような気になる。
今はきっとバタバタと忙しいけれど、このブログが続く限り私はことあるごとにこの日のことを思い出すんだろうなーって。
そしてぴっぴやぴーすけも忘れてしまうだろうけれど、この日記を見て何か思うこともあるだろう。(続けないとな…)
続き。
看護師さんが死亡を確認し、医師の到着を待つことになった。死亡の診断をしてもらうためだ。
その前に伯母が到着した。まだ手は温かかった。それが救いのような気がした。
伯母は「もうこれ以上苦しい思いをしなくていい」ということを何度も言っていた。
それくらい最後は痛みに表情を雲らせることが多かった。
一方で意識のレベルは下がってうわ言のように「お姉さん」と呼んでいた。
生きている間はいろんな軋轢のあった母たちであったが、最期の時に「今までの時間を取り戻すように濃い時間を過ごせた」とも伯母は話していた。
ゆっくりお別れをして、医師に診断書を書いてもらい、体をきれいにしてもらう。
この時のために着せてもらおうと思っていた洋服を着せてもらう。部屋を後にし、今度は葬儀屋さんとの打ち合わせと慌ただしく時が過ぎていった。
東戸塚のホスピスは、ネットの口コミはあんまり評価が良くないのだけど、私たちにとってはいろんな気遣いに満ちた職員さんばかりであった。
ヘルパーさんは嫌な顔ひとつせず「これが私たちのお仕事ですから」と早朝も夜中もオムツを替えたり体位を変えたりしてくれた。
看護師さんは母の体調はもちろんだけど、私たちに「ちゃんとご飯は食べてくださいね」「倒れないようにね」と自分達の時の話をしながら気遣ってくれた。
ときどき泣きながら不安になる気持ちを話した時も受け止めてくれたり頼りになる存在であった。
亡くなった後の話をするのははばかられるが、誰も経験がないことでわからないことだらけで、そういうのもときどき教えてくれた。
「着せたい服があったら持ってきておいて」とか「葬儀屋さんはもう決めてあるか」とか事前に見積りとかとっておいてよかったなと思う。
あっという間にうまる斎場予約
死亡の診断を医師に確認して、1時間後に葬儀屋さんはやってきた。
悲しみに浸る間も無く、いつを葬儀にするかという話である。
みんなの仕事の都合と、空いている斎場との兼ね合いで、五日後になった。
今は西久保斎場が1ヶ月休場なのでますます空いてないらしい。横浜市の北部斎場に決まった。
夫には逐一連絡をしていたが、「日にちはわかったから後はこちらは気にしなくていいよ」とのことだった。
事前に話し合っておいたけれど、コロナ禍ということもあり家族だけで送り出すことに決めていた。
私たち三姉妹と、母の兄弟と、うちの夫だけで送る。
子どもたちは義母に預かって家で見ててもらうことにした。
最期のお別れを孫ができないのは寂しい気もしたが、2歳の子どもがずっと待っていられないだろうし、非常識なのかもしれないけれど、義両親もお葬式に呼ぶと変な気を遣わせたりこちらも気を使う。
母をよく知っている人たちだけで、子どもたちのことも気にせず悲しみに没頭したい気持ちであった。
義母は快く承諾してくれた。数年前に義母は自身の母を送り出す時にとても大変な思いをしていた。
こんなに早く親を見送ることになる、コロナもある、いろんなことがイレギュラーなこのお葬式に理解を示してくれた。
私は義両親のことが結構好きなので、あんまり自分達を想像させるような場に呼びたくない気持ちもあった。
2月の母が危篤の時は本当にお義母さんは辛そうであった。「まだ若いのに。どんなに惜しいか」
お葬式の段取りが済んで、母をホスピスから送り出した。職員の方達も玄関まで見送ってくれた。
今まで会うことができていなかったケアマネージャーさんも来てくれた。一緒に涙を流してくれた。
とにかく一区切りしてお昼を食べに行くことにした。三姉妹と伯母で、東戸塚のカフェコムサで各々食べたいものを食べた。
そこでもいろんな打合せと、やっとお母さんが楽になれたねとお互いに言い合った。
伯母にはそれから家に帰ってもらい、私たちは役所や銀行周りをしてからホスピスを引き上げた。
葬儀屋さんが不用品などを一緒に持って行ってくれたおかげで、手荷物と細々したものをタクシーに乗せ家に持ち帰ることができた。
後日ホスピスの支払いなどまだやることはあるが、平日だったおかげで色々と手続きはすませることができたのだった。
お葬式の当日
義母には前日の夜から泊まりに来てもらった。私はどうしても片付けなくてはならない仕事があって、出勤していた。帰ると義母が買ってきてくれた焼き鳥パーティー。
夫が子どもたちを寝かしつけてくれている間に色々話をした。これまでのこととか、うちの母が義母に送った年賀状の言葉がずっと義母には胸に突き刺さっていたようで。色々思い出すと涙が出るようであった。
私も義母と話していると、歳は違うのだけど同じ「母を亡くした者同士」しんみりと話をしてしまうのだった。一方で共感力の高い義母に辛い思いをさせていないかも心配であった。
まぁ人の心配している場合じゃないけどねー
母のお葬式は、簡単に。だけども花が好きだった母のために、みんなで各々「母が好きそうな花を持ち寄ろう」という話になっていた。
その話を聞いていた義母も立派な花束を持ってきてくれていた。
その花束と、私も自分で用意した花束を持って、当日はみんなでタクシーで北部斎場へと出発した。
こう言うのもなんだけど、斎場は大盛況であった。後から後から団体が来て、お別れをしていく。
葬儀屋さんが色々と手配してくれていて、私たちは流れに身を任せるだけであったけど
お葬式自体も1度しか行ったことがない。ましてや喪主とか主催側になるのは初めてである。このタイミングで数珠がいるのか?!とか、お焼香するのか!とか色々焦る。
まぁ身内しかいないし、誰も慣れない私たちを責めない。そつなくやるには経験がなさすぎた。
姉や妹も花束を持ってきていて、伯母は庭の花をたくさん摘んできてくれていた。
母の棺の中に色とりどりのお花が並んで、そこにテニスのウエアやサンバイザー、誕生日にもらったマフラーとか色々入れていった。
ぴっぴの絵も入れようと思ったのに忘れたのだけが心残り。(持ってきてたのに)
最期のお別れをして、骨になるまでの1時間ほどをみんなでコーヒーを飲みながら、姉が作ったアルバムを見て思い出話をしながら待ったのだった。