昨日の地震。久しぶりに鳴った警報音、大きな揺れ、どれもこれも3.11を思い出すものだった。
何とか我が家は無事。
近所に住む姉と、入院中の母、1人で留守番の妹、義実家どこも大丈夫であった。
ちょっとガタが来てるマンションも、前回は天井が落ちてきてたけどもあんまり大きな被害はなくホッ。
次の日に、会う人会う人、大丈夫だったか聞いたりしてご近所の安否も確認。
このコロナの中、地震で被災したらどういう展開になるのか、想像しただけでも恐ろしいのであった。何となく感染者が少なくなって収まってきたような状況なのに。ここ数日は油断ならない。
2011年の3月11日、私はプー太郎であった。
4月から働く前に、1人で中欧ヨーロッパを旅して帰ってきたら今度はねーちゃんと韓国旅行に行って
帰ってきて数日しての地震。
上永谷の姉のうちにいて、これはヤベェ!と実家に向かったのだった。バスに乗るも信号はつかない進まない。途中で降りて歩いて向かう。
家に帰っても、電気はつかない状況はつかめない。とにかく携帯で連絡のつく人には安否を確認して、お互いの無事を喜んだのだった。
1人だけ連絡のつかない人がいた。大学の友達で福島に戻っている友人だった。
地震があったその時間は「大丈夫」と連絡があったのだけど、その後「避難するから」の後ずっと連絡がつかなかった。
その夜、祖母の家でみんなで卓上コンロでフライパンを乗せウィンナーを焼いてたのを覚えてる。
そして一瞬映ったテレビの、大洪水が家を流していく画像。
これはもうダメだと思った。
数日経って友人から連絡があった。生きていた。それだけで涙が出た。
家は流されてしまったが、何とか避難して家族は無事であったようだった。
連絡が取れるまでの数日間の冷えた気持ちのことは忘れられない。
それからの計画停電の日々や、ずっと流れ続けた「ポポポポーン」のACのCM。まさしく非日常であった。
そしてその夏、石巻にボランティアに行ったのだった。
高校生の頃、新潟の長岡で大きな地震があり、その当時指定校推薦で受験が終わっていた私はボランティアをしたい旨を学年主任の社会科の先生に相談した。
その時は「高校生がボランティアに行っても力になれないかもしれない。自分のことは自分でやった上で、助けなければならない。かえって向こうの人にお世話になるようではいけない」
という主旨のことを話されたのだった。
ようは諦めなさいということだった。
当時は役に立たないと言われて高校生の自分が無力に感じたのだけど
確かに土地勘のない場所で、余震が起こって自分も被災したらかえって足手まといだなと今なら思う。
そんな思いもあったので、大人になった自分が何ができるか、考えつつのぞんだボランティアであったが
行った先の景色に言葉を失った。
流された電車の車両、一箇所に積み上げられた流された車、家の家財道具。
あたりには家があったのであろうが、流されてコンクリの頑丈な建物だけを残してまっさらな土地になっていた。
断片的な画像しか思い出せない。写真を撮ろうと思っても直視できない。
思い出すのは、広島の原爆資料館で見た、原爆投下後の白黒写真だった。まさに戦後のようだった。
こんな状況なのに、やれ東京では計画停電で電気の供給が足りてないと不満を漏らしていた自分を恥じた。
ボランティアではできる限りのことをやったが
いっときしかいない自分たちが一体何になるのだろう。でも何もやらないよりはマシかと言い聞かせて、暗い気持ちで帰ってきたのを覚えている。
毎年3月11日になると福島の友達とは電話をするが
生活は取り戻したものの、「以前と同じように」とはいかず。原発のこととか、被爆したであろうこととか、まだ「終わってない」ことを胸に刻み込む。
おととし、ぴっぴを連れて旦那と訪れた、友達の住む福島県のいわき市はすっかり綺麗になって津波のことなど忘れてしまいそうだったが
「子どもたちが被爆して外で遊べないから、屋内施設がたくさんできたんだよ」
と、ポーネルンドみたいな遊び場に100円で遊び放題で入れて、ぴっぴは喜んでいたけど何だかねじれてんな、と思った。
人ごとではあるけれど、いつ自分にも起こっておかしくないこと。実際友達の身に起こっていて、私の知らない誰かも被災していて、大切な人が亡くなっているかもしれない。人ごとで良いのかしらと思う。
南海トラフも、関東の直下型地震も「いつ起こってもおかしくない」
防災にしろ、被災にしろ、少し心のアンテナを敏感にしていたい今日この頃。