母のがん

その後の家族

投稿日:2021年5月1日 更新日:

怒濤の数日が過ぎた。手術の日は23時半に帰ってきたが夫は起きて待ってくれていた。

連絡してくれていたが、次の日はなんとか仕事を調整して休みをとってくれていた。悪いなぁと思いつつヘロヘロだったのでありがたかった。

手術翌日、伯母が我が家に来ることになった。いてもたってもいられないのだろう。

わたしがぼやっとしているうちに夫はぴっぴを保育園に連れていき、伯母がきてからあいさつしてからぴーすけを外に連れ出してくれた。

おもいっきり家族で話してらっしゃいという心遣いであった。こういうことができる人なのだ。

妹は泊まっており、後から姉も来てみんなで話した。今回のステージⅣはみな想定外というかショックだったこと、これからどうするか、お金の心配や気持ちの心配。

従姉妹にも検診にいってほしいこととか。

男の人がいるとたしかに話しにくいこと(子宮系なのでな)もガンガン話して、とりあえずみんなで協力体制が作れた。

お昼に伯母がいろんなパンを買ってきてくれてそれを食べたら実家をどうするか、メドをつけにいくことにした。

夫は外でぴーすけとお昼まで食べてきてくれたもんで、ぴーすけにおっぱいをあげて出発することにした。再びぴーすけは夫に託された。

いつとはわからないが、母が帰ってくるのに家は片付いていた方がいいし、このまま保土ヶ谷に退院と共に越してくるのも手だと考えた。

ま、かーちゃんの意志がもちろんですが、実は万が一の時を考えて母にはこの家に未練があるかは聞いていたわけで

保土ヶ谷の方が病院もあるし、テニスも近いし「いずれ」越してくることで合意はしていた

いつやるの?いまでしょ

部屋についてからざっくりものの把握をして、いつかやろうと思ってたことや、思いきって捨てるものはどんどん捨てた。

妹は母のことを気にしていたが、わたしが捨てちゃったことにしていいから!とどんどん減らした。

それでも二時間やれば限界で次回粗大ごみの検討とコンロを掃除することを約束し帰った。

片付けをしてる間は、これがいるとかいらないとか、頭の中はそれに集中できた。悲しい気持ちとかどうしようとかではなく、やるしかない。

この数日を振り返っても、今が育休中でよかったと思う。

そりゃ、介護とかもっと育児がひとだんらくしたときのことだと思ってたが。

もっと責任が大きくなると親のために休むのが難しかったかもしれない。

でもね、自分が後悔しないようにやれることはやったほうがいい。

今回夫がくそ忙しい中なのにサッと休みを取ってくれたのは忘れない。もちろんご両親は健在で今はなにも心配ないけど、いつか自分もサポートしていきたい。

とにかく段取りをつけて、いつ退院するかわからない母が帰ってきたときは気持ちよい家にしておくしかない。

ICUから一般病棟に移った連絡があり、2日ぶりに母からメールがきた。

変換ミスだらけで暗号を読んでるみたいだったが、それが逆に本人が打ってることがわかってほっとした。まぁ生きてるわな

また携帯が使えなくなるらしいことを送ってきたので、しばらくは様子見するとしよう。



-母のがん

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

関連記事

三姉妹でお見舞い

毎週、週末に行っていた母のお見舞い。 久しぶりのお見舞い 段々とモルヒネの量が多くなってきた。1日に10回とかフラッシュをすると、痛みは和らぐが起きていられる時間が短くなってきた。 思えば「余命1、2 …

腎ろうを造設して絶好調のかーちゃん。

夜中に3回嘔吐して、死にかけていたかーちゃん。 手術は無事に成功。というか、処置? 今なら言えるけど、「家族の人を呼んで説明を受けてください」と言われていて、私が呼び出されたとき(いつもついていく妹で …

羽生結弦がそうさせたのか

意識戻ってホッとした6日。次の日に、横浜市民病院のICUで必要なものをリストにしてもらい、母に届けることになった。 荷物を届けるだけなので、今度こそ私が自転車で持って行くことになった。7日は義母が朝来 …

2回目のコロナワクチンを受けられた

このところ母のことはすっかりノータッチだった。 4回目の抗がん剤治療が終わり、その後尿路感染でまた入院。入院中は何もできない。 しかし、今回HCUに入って体調は回復し退院となった。よかったよかった、な …

腫瘍マーカーの結果CA19−9

三連休の真ん中だというのに、横浜市民病院から電話があった。 残念なことに、2人の子どもの対応に追われ気づかなかった。かけ直すも、休日は急患以外は受け付けていないというアナウンスが流れた。 はて、母は入 …