三連休の真ん中だというのに、横浜市民病院から電話があった。
残念なことに、2人の子どもの対応に追われ気づかなかった。かけ直すも、休日は急患以外は受け付けていないというアナウンスが流れた。
はて、母は入院したのだっけ。昨日のメールで保土ヶ谷公園にテニス仲間と久しぶりに会いに行くと話をしていたところだったのに。そう思って、朝方メールをしていた続きを送ると、母もたった今市民病院から電話をもらったところだった。
もともと、13日の木曜日に腫瘍マーカー検査の結果を一緒に聞きに行くことになっていた。ぴーすけはスーパーベビーシッターの姉ちゃんに預けて、病院が終わったらぴっぴを保育園にその足で迎えに行く。
しかし、電話でその腫瘍マーカーの検査結果を言われたのだった。
どうやら悪いらしい。
腫瘍マーカー検査については、最初の最初、このカテゴリの「母のがん」のところも同じような展開であった。いろんな情報を読み漁り、私は最悪膵臓がんだったらと想像したのだった。
この電話の真意は、本来13日にこの結果を聞くための診療を無しにして、早々にPET検査や胃の検査をしようとのことであった。12日には胃カメラの予約をしに、その次の週にはPET検査、その結果報告と目白押しだ。
母との電話で、主治医の先生からの話と、今後の検査祭りの日程を聞いているうちに声に元気がなくなっていく。この日は久しぶりにテニス仲間にいろいろ話をするということだったが(そして心配なのでついていく話だったが)
どうするかちょっと考えてから連絡するとのことだった。
電話を切って自分もちょっと動揺する。腫瘍マーカーについては、がんがあってもがんがなくても反応してしまうシロモノというのはわかっているつもり。それでも今回の子宮体がんを見つけてくれたありがたい検査だ。
偽陽性が楽観視する1番いい結果だが、実際がん患者なのでそれはないだろう。
次に子宮を全部取っちゃってたからそれに近い臓器に転移。CA19−9だから、胃がん、大腸がん、膵臓がん、胆嚢がん、胆管がん、卵巣がんあたり。卵巣と大腸は全部取っちゃったからそれ以外か。
1番最悪のケースで考えると膵臓がん。
これは4月の時にブログを読みまくったけど、膵臓がんが見つかった時それは結構末期が多くて、だいたい数ヶ月持たないことが多い。しかもすごく元気だったのに、ガクッと体調崩すとか。
それでも、4月の末に13時間にわたる手術を終えて、一時はICUにいたのに、今では自力で歩けるしストマも自分で替えている。
結局、母は保土ヶ谷公園のテニス仲間に会いにいくことにした。その前に一旦我が家にやってきて心境を聞いた。声は元気がなかったが、見た目には落ち込んでなさそう。
「だってさ、全身痛いし何もないわけないと思ってたよ。PET検査だってずっとやってなかったし。不思議とそうなのか、って感じ。だからあんまり心配しないでいいよ」
そう言われて、「私が心配したピークは手術の日だから今はあんまり心配してないよ。あの時一回『死んだな』って思ってるから」と言ったら笑っていた。
今はこうして目の前で元気に話している。年始に挨拶に行く予定が、ぴーすけの熱で延びて年始の挨拶に、と夫にもテニスの帰りに寄ることを伝え(ぴっぴと夫はお出かけ)
いざ保土ヶ谷公園へと出掛けて行ったのだった。佐伯チズさんくらいのベリーショートのごま塩頭を自分で染めて焦茶色になっていた。行く前にちょっと気を使ったのだろう。ゴリラにしか見えなかったが
保土ヶ谷公園は先日降った雪が、まだたくさん残っていて、池の水も凍っていた。この日は暖かくテニスコートは半袖でプレイする人もいた。ちょっと30分、なんて言っていたのに、結局1時間近く談笑して帰った。
われわれは大人気の長い滑り台をぴーすけと滑ったり、もうすぐ咲きそうな梅の蕾を眺めたり、いいお散歩であった。
こうして時々テニスコートにおしゃべりをしたり、ちょっと体力がつけば壁打ちをしたり、ゆるーくラリーをしてもらったり。こちらに越してくれば、いろんな楽しみ方があるのに。
それが余命宣告されて、残りの日々が少ないとわかっても、意外に転移が大したことなくても、「誰と過ごしたいか」「どういうふうに最後までありたいか」を明確にしていけば答えは出そうなもの。いろいろ理由をつけて「やりたくない」と延ばす癖があるのが母。
思い立ったら行動して、やり切るまでは気持ち悪いと思うところがある私とはやはり根本的に違うのだな。
もし、自分がこういう立場になったらどう思うのだろう。息子2人がまだまだ家庭を持ったばかりで、夫と2人の時にこういう病気がわかったら。
ちゃんと訪問介護とか公的なサービスを駆使して、家族の負担にならないように自分でできることはできる限りやるだろうな(理想)それだけ理性的でいられるのか。夫にもなんとなく聞いてみたけど、想像などできない。先すぎる。
それでもカーチャンと意見が一致したのは、「交通事故である日突然いなくなるのではない」という点が、この病気でよかったと思うところだ。中には交通事故で大切な人を亡くされた方もいるだろう。
昨日まで元気だったのに、なんの準備もなく、言葉もかけられず。そういう後悔が残る。母が病気になり、なんとなくであるが人より長く生きられないということがわかった。言いたいことや、してあげたいことをやり残さずに済むのがこの病気の唯一いいところだと思う。支度ができるのだ。
それでも私は人間ができていないから、全てまるっと受け止めるほどの度量はない。しかしながら、今まで母に抱いていた怒りとか憎しみのようなものは、持っていても意味がないことがわかった。
もともと忘れっぽい性格だからそんなに覚えてもられないけど、とにかくうちのカーチャンのそれは強烈で、大量で、ことあるごとに、だったので(しかも本人は悪いことしたと思うことがこれっぽっちもない)もはや言っても無駄、私は大切にされないのね、といじけていた。
そういうのが、もうそんなに長くないとわかった今、本当にスルッとどーでもよくなった。(いやまだ余命宣告されてませんけど)
よく、宗教的な言葉で怒りを手放せとか解放されろとか、胡散臭いと思っていたけれど、その感情に囚われている間は確かに不自由だった。許すも怒るも自分次第なのだな。
まだまだカーチャンが元気なうちは舌打ちしたくなることばかりだろうが、とりあえず私のできる範疇で、できることをやろう。