やっとこ慌ただしい1週間が終わって、仕事に没頭する毎日である。
細々としたことは、比較的仕事の融通が平日にきく、妹と姉でやってくれている。つくづく思うのが姉妹がいてよかったということ。そして仲が良くてよかったということ。
それはそれとして、こんなにいろんなことが急に起こった一年半ではあったけれど、とにかく強靭な精神力で立ってますという感じである。
日記を読み返せば、感情のビッグウェーブが寄せては返し、自分の人生を生きているというよりは母の波乱万丈劇に助演で出てました、というのが感想である。
ただ、母の病気がわかってからは検索魔になりいろんな記事を読み漁った。がんのことや、がんと闘うがんサバイバーのブログである。
本人やその家族の記録を読んで疑似体験していたおかげか心の準備はある程度できた。それこそ何十人もの記録を読んで希望を見出そうとした。だけど結果的に母は亡くなってしまった。
それでも振り返ってみれば「もっとああすればよかった」「もっとこうしてればしんどくなかったのかも」という思いである。どこで間違ってしまったのだろう、どの判断が予後に影響したのだろう。考えれば考えるほど辛く、自分の決断に疑問が残る。
そう思えばこそ、こうなる前に母とよく話をしておけばよかったのだ。
健康なうちに「病気になった時の話」をしておく
これは唐突に話すのもあれだけど。親は先に病気になり、足腰も弱くなる。認めたくないけど、事実だ。
しかし、病気になってから話すとそれこそ「死」を想像してしまう。わが家では「そんな話をすると縁起が悪い」「死んでほしいのか」みたいな言われようであった。
冷静に話ができるのは穏やかなリラックスタイムだ。話のキッカケは「ママ友でこんな話があって…」いいじゃないか。
ここまでの経過を話して「もしこういうことがあったらうちではどうしようかと思って」とか「私はここまでできるしこういう準備があるよ」と伝えるのも大事だと思う。
親も子に迷惑はかけたくないだろう。だけど、人は迷惑をかけるものだ。なんと言おうと最後は家族が出て行かなきゃならん場面に遭遇する。
そんな時になって「迷惑はかけられない」と決断できない方が迷惑である。多くの人がピンピンコロリで亡くなることを夢見ているが、実際の人生は長い。そんな「ラッキー」を信じて待つのは買ってもいない宝くじに当たるのを夢見るようだ。
どんな病気にしろ、そこから介護に流れて行くにしろ、自分の思い描いているプランは共有すべきである。
少なくとも親のかかりつけ医や、保険証がいつもどこにしまってあるかくらいはわかってないとマズイ。
親の蓄えや、利用できる施設の情報、市町村の支援を確認しておく
いざとなってから聞きにくいものの一つに親の財産共有がある。
我が家のようにお金はないなりに公的な制度で高額な医療費を減額してもらったり、障害者手帳で割り引いてもらえたり、給付してもらえたりする。
これが所得制限やら年間の納税額でだいぶ変わってくる。もっと言うと介護保険の納付は40歳からだけど、使えるのは60歳からで、病気を患った当初59歳だった母は制度からは漏れていて途方に暮れた。
乳児を連れて役所をまわり、ケアプラザにいったりケアマネジャーさんに相談したり大変であった。
何かのついでに自分の自治体でされているサービスや使えるものをチェックしておくといい。また親が自分達とは違う自治体ならそちらもチェックしておくと安心だ。
たいした財産もないのに遺産で揉めることはないと考えるだろうが、兄弟がいる場合はどっちが何を負担するかで揉めがちである。基本は親の財産で介護費用はまかなう、が大前提だが
現金以外にも財産がある場合カウントが難しい。株とかすぐに現金化できない場合はやっぱり誰かが負担しなければならない。
我が家はお金がない中でも複数の昔の通帳が出てきて「暗証番号」がわからなくて困った。日頃から「通帳に暗証番号は書くな」と伝えてはいたけれど、いざという時は引き出せないと困る。
今後「年金が入ってくる口座」や「公共料金の引き落としの口座」くらいは暗証番号は手に入れておかないとマズイ
延命措置をするかどうか
今まで話したことは実はあんまりたいしたことではない。なぜなら命には別状がないからだ。
本当に困るのは「生きるか死ぬか」この判断を家族がしなければならない時だ。
自己決定権という、憲法13条で定められた「幸福追求権」に基づく権利がある。これは自分の生き方を自分で決める権利だ。保険証とかマイナンバーカードに臓器提供の意思を確認する欄がある。あれである。
自己決定の1つに「延命措置」も挙げられるだろう。
私は3度母の命を握った。1度目は4月の手術の時。開腹したらがんが進行していて当初の予定を変更して拡大してがんを取り切るか決断を迫られた。
結果13時間の手術にICUである。万が一はいつでも訪れる。
2度目は今年2月の心筋梗塞である。自力の呼吸が難しく喉に管を入れる「挿管」をして命をつなぎとめるか。一命は取り留めたが、のちの母には「やってほしくなかった」と言われた。
3度目は点滴だ。母は今年の4月からは点滴のみで生きている。これを止めることはつまり死を意味する。どこでこれを止めるか、これは消極的な尊厳死である。
難しいことは置いといて、「親に自分のことは自分で決めておいてもらう」ことが大切だ。じゃないと、本人以外の人がその人の命を握ることになる。このプレッシャーたるや…
自分のできることとできないことをはっきりさせておく
親に育ててもらった恩というものがあるだろう。昔なら親の介護は子どもの仕事、もしくはお嫁さんの仕事だったろうが、果たして「今もそうだろうか」
もっと言うと「自分は自分の子どもに面倒を見てもらおうと思っている?」
私の答えはノーである。
ならばなぜ親は別なのか。世代の違いはあるにしろ、親は子どもに幸せになってほしいと願っている。
自分の手の届く範疇であれば全力で守るし、成長しても見守ることはできる。間違っても足枷になりたいとは思っていない。
わたしは、自分の老後は出来ることは自分やパートナーと協力して解決し、来たるべき時に備えてお金の準備もしておく。
少なくとも元気な今の段階から「息子たちよ、老後は頼んだよ」とは思っていない。
ただ、自分の体や意識が言うことを聞かない時に代わりに手続きをしてもらう必要はある。
だから、やってほしいことや自分の意思をはっきり表明しておく必要がある。
それに対して「できるかできないか」を彼らに尋ねておかねばなるまい。無理ならほかの人や方法を考えなければならない。
これまでの親子関係の総決算だ。家族として支え合うのは美しいが、あくまで違う人格の違う人間。
相手の意志を尊重したい。
自分の子どもにはそう思うのに、どうして親に対しては言いたいことが言えないのだろう。
気遣ってくれる親なら話はスムーズだが、「やってくれて当たり前。もっと!」といううちの親みたいなタイプには事前に自分のできることとできないことをしっかり伝えておかないと
「親のために仕事をやめるのも当然」と言われかねない
親を大切にする以前の段階として、「自分を大切にしないと人を大切にすることなどできない」のだと思う。無理は禁物である。
我が家の場合
それでも死に瀕してる親を目の前にして、キッパリと無理だとつっぱねるのは難しい。
わたしも母の気持ちに寄り添ってきたつもりであったが、1つだけ譲らなかったのは「妹に同居でつきっきりで介護をしてほしい」という母の願いを断ったことである。
市民病院から退院しなければならないとき、母は妹の一人暮らしの家で残りの人生を過ごしたいと言った。
これに対して妹は、「母の希望だし叶えたほうがいいのか」すごく悩んでいた。
猛反対したのは私。介護の大変さは、福祉を学んだものならわかる。ましてや若い娘の家に、介護ベッドを入れて24時間介護とな
期間限定ならともかく、いつまで続くかわからないのに安請け合いしてはお互いに負の感情を生むだけである。
そこから何度も話し合って、妹の本当の気持ちを聞き出し、母を説得して結果的に我が家で2週間ほど滞在した後病院に戻った。
それかは母が亡くなったのは約7ヶ月後である。あのとき妹が家でみると言っていたら…。
「1ヶ月くらいの気持ち」がここまで緊張の続く日々である。
ここで無理をすればなんとかみんなで交代して、ヘルパーさんや看護師さんを総動員して、若いからなんとかなったかもしれない。
でも、私たちの人生は続く。そこで燃え尽きても、母は何も残してくれないのだ。
わたしはある意味冷静に、バッサリとその希望は断った。そして私たちのできる精一杯で応えた。それには自分たちの命を削ってはいない。
でも精神的なもので言えば十分すぎるほど私たちは気持ちを砕いた。悲しみや心配や、無力感は普通の施設でも十分すぎるほど味わった。
施設の方がいてこそ、自分でいられた部分は大きい。
身近で何でも言える関係だからこそ
1番大切なことは元気なうちに話し合ってほしい